ユネスコ加盟70年の歴史をたどる 第3回:ユネスコの設立と日本の加盟(下)

2021-12-08T16:28:11+09:002021年12月3日|

「ユネスコ加盟70年の歴史をたどる」

ユネスコ憲章第2条によれば、国際連合の加盟国はユネスコに加盟する権利を持っています(第1項)が、国際連合の加盟国でない国は、国連経済社会理事会での過半数の賛成、執行委員会の勧告、総会の3分の2の賛成を経て初めてユネスコに加盟することができます(第2項)。当時まだ連合軍の占領下にあった日本は、GHQの許可を得なければ加盟を申請することもできませんでした。もっともアメリカは日本のユネスコ加盟を支持していたので、GHQの許可は割とすんなりと得られたようで、日本は1950年(昭和25年)12月に加盟申請を行うことができました。国連経済社会理事会では、日本のユネスコ加盟についてソ連・東欧諸国が反対、イギリスも当初、日本の講和前の加盟には反対しており、国連経済社会理事会での投票(1951年3月)では棄権しましたが、ユネスコ総会での投票(同年6月)では賛成票を投じました(この時点でソ連・東欧諸国はユネスコ未加盟)。これについては、イギリスが独立国でない植民地をユネスコの準加盟国とすることができるよう提案していたこととの整合性が説明できなかったからという解釈もあります。

結果的にはパリで開催された第6回ユネスコ総会(1951年6月~7月)において、フィリピンの反対を除けば全ての加盟国が日本の加盟に賛成し、我が国は連合軍占領下においてユネスコへの加盟を果たすことができました。しかし、そこに至るまでには、様々な準備が行なわれていました。第2回ユネスコ総会(1947年11月~12月、メキシコ・メキシコシティ)で、インドおよび南アフリカの代表から日本の加盟を希望する発言があったことを受けて、ユネスコはアジア極東方面特別顧問の郭有守氏を日本に派遣し、GHQの関係者や森戸文部大臣との会談、国会や東京都内の教育機関の視察などを基に、日本のユネスコに対する熱意を確認しました。

第3回ユネスコ総会(1948年11月~12月、レバノン・ベイルート)にはGHQからもオブザーバー参加して日本の現状が紹介され、その結果、ユネスコに関する情報を日本の関係者に周知させることやユネスコの事業計画の実施上望ましいと認められる場合にはユネスコの専門家会議に日本人の専門家を出席させることなどの内容からなる決議が採択されたほか、ユネスコの駐日代表部を設置することが決定されました。また、第4回ユネスコ総会(1949年9月~10月、パリ)では「日本に対する事業計画」が採択され、これには日本人にユネスコの奨学金受給資格や補助金を与えることも含まれていました。

第3回から第5回ユネスコ総会(1950年5月~6月、イタリア・フィレンツェ)を通じてGHQのWilliam K. Bunce民間情報教育局宗教文化資源課長がオブザーバーとして出席しましたが、第5回総会で初めて日本人が3名オブザーバーないしアドバイザーとして出席しました。ここではユネスコの所掌分野において日本を対象とした事業を行うことが決議されました。数年をかけて日本の熱意が加盟国に伝わっていき、ユネスコの事業に日本も組み入れられていき、ついに第6回ユネスコ総会会期中の1951年6月21日に、ほぼ満場一致で日本の加盟が実現しました。その際に日本代表団の前田多門首席代表(敗戦直後の時期の文部大臣)が行なった感謝演説は、我が国にとっては国際社会に復帰する第一歩となった歴史的な演説として記録されています。ユネスコおよびその加盟国への感謝、ユネスコ精神が日本の再建の指導原理となるべきこと、ユネスコが掲げる理想の実現に向けて日本国民も役割を果たす責任を感じており、憲章が求める義務を果たしユネスコの活動への協力する決意でいること、新渡戸稲造の功績に言及しつつ、日本は西洋と東洋の文化の統合に関心を持っていることが述べられています。第6回ユネスコ総会の議事録に英語の原文が残っていますが、残念ながらウェブ上では見ることができません。

ユネスコ加盟国になると、ユネスコ憲章第7条により、国内委員会を設立する必要が生じます。次回はユネスコ国内委員会の設置およびその初期の活動について触れたいと思います。

執筆者

町田大輔
文部科学戦略官

1986年(昭和61年)、文部省(現文部科学省)に入省。文部科学省・文化庁内の各部局のほか、他省庁、地方、独立行政法人、大学、研究所で様々な業務に携わったが、科学と国際分野の経験が比較的長い。1996~2002年、旧文部省国際学術課課長補佐、在仏日本大使館(ユネスコ代表部)一等書記官、文化庁国際文化交流室長としてユネスコに関わった。2021年4月から現職。

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